エッセイ(2006年1月6日)
Nao-sanのひとりごと



自信とは英語で言えばself-confidence。文字通り「自己信頼」、つまり自分を信じるということだ。しかし一般的には自分自身というより、その持てる能力や技術、容姿に対する自信というふうにとらえられていないだろうか。そのような場合、「自信に満ちた態度」とか「自信にあふれて堂々としている」などのように描写されることが多い。表面的にはそうであっても内心は不安におののいていたり劣等感にさいなまれる小心者であったりするならば、それは本当の自信にはなり得ない。
たしかに今まで出来なかったことが出来るようになったことがきっかけで自信が持てるようになり、性格が明るくなったり積極的になったりすることは日常的によくあることだ。しかしそうした「自信」はいわば自我の中でのことで表面的なもの。自分より優れた人が現れたらとたんにゆらぐ自信なのではないだろうか。世の中には人が羨むような容姿や才能に恵まれ、他にひけをとらない能力があり社会的な地位や富を手にしていても尚かつ自信が持てないという人は多いものだ。それでは本当の意味での自信とは何だろう?何があろうと微動だにしないほどの
自己への絶対的な信頼とはどうしたら持てるのだろう。
 自分自身にOKを出すこと

それには二つの段階があるのではないかと思う。先ず第一段階は自分自身にOKを出すこと。つまり自分を他と比較せずこれ以上でもこれ以下でもない存在として認めまるごと受け入れることだ。そこから自分への無条件の愛と自尊心が生まれる。それでは自分をもっと成長させよう、もっと良い人間になろう、欠点をなくそうという努力をしなくてもいいのか、と言われそうだが、その通り。しなくてもいいのだ。そんなことに努力は何の役にも立たないから。自転車に乗れるようになるための「努力」、テストの点を上げるための「努力」とはわけが違うのだ。人のタイプや性格はいわばその人の個性。努力すれば直せるクセや習慣とは違う。

確かに良い性格、悪い性格というのはある。たとえば意地悪、猜疑心、卑屈、狭量、批判的、など。それに気付いているならそれを認め愛してやることでその部分は次第に薄れて行き、いつの間にかその裏側にある長所ーーつまり聡明さ、慎重さ、謙虚、注意深さ、洞察力などが表面に現れて来る。欠点と長所はコインの裏表のようなもの。両方セットになっていてそのどちらかが表面に出ているだけだ。だから両方あっていいんだよと認めてやることで、人を不快にする面は次第に陰をひそめて行く。自分をいやなヤツだと嫌って自己嫌悪をつのらせても何の役にも立たないし堂々巡りを繰り返すだけだ。

  自分の中の「良心」を信じること

そして更に次の段階。自分を愛し信頼することは自分の中の神聖な部分を信じること。つまり自分が実は神聖な存在であることを知ることだ。どんな俗な人間にも良心というものはあるはず。それを自覚しているか否かの違いはあるが、それこそが神聖な部分。そしてそれは私たちを生かしている「いのち」とつながっている。それではいのちって何?身体といのちって同じものだろうか?今こうして生きて存在しているのは、この私が呼吸器を働かせ心臓を動かしているから? まさか!

もしそうなら自分の意志で自在に止めたり動かしたり出来るはず。そんなことが出来ないことくらい子どもだって知っている・・・はずなのに、日頃そんなこと考えもせず、漠然と自分の力で生きているように思ってはいないだろうか?

それではこの「目に見える」肉体を生かしているのはいったい何だろう?それが「目に見えない」いのちというものなのではないだろうか?全身の細胞の隅々にまで行き渡っているいのち、全ての情報を有し全智全能のいのち、それを人によっては神と呼び、生命エネルギー、宇宙エネルギーなどと呼ぶ(私個人はウチュウノチカラ)。呼び名は何でもよい。何か人智を超えた大いなるもののお陰でこの肉体が、臓器が、微生物が、休むことなく眠っている間も働いていることだけは確かなのだから。

そのことに気付くこと。その何だか分からないものに意識を向けて、それに対する畏敬の念、謙虚さ、そして感謝。そういう思いを抱いている自分というものを自覚し信じることが出来た時、初めてホンモノの「自信」が根付くのだと思う。そうなればどんな嵐が来ようとビクともせず、人の批判や意地悪もニッコリと受け流し、常につきまとう「比較」「差別」の輪から抜け出し、ゆらぐことなく凛として優雅に生きて行けるようになる。そのような時その人の「いのち」は輝きを増し、全身をイキイキとさせ病いを寄せ付けず意識は無限に広がって行く。それが真の自信を得た人の姿なのではないだろうか。