エッセイ(2003年3月31日)
Nao-sanのひとりごと




人がこの世から消え去って行くことを「死」と呼ぶが、消滅するのは肉体だけでその中に宿っていた「魂」は消えることなく永遠に生き続けるという。つまり厳密に言えば「死」というものは存在しないというのだ。仏教では魂の生まれ変わり、つまり輪廻転生を真実のこととしてその根本理念に置いているが、最近のニューエイジあるいは精神世界と呼ばれる、宗教という枠を超えて宇宙の真理を探究する新しい思想の根底にも同じ理念が流れている。

これは多くの信頼出来る精神科医の臨床報告や科学者達の実験などから今では既定の事実として認められ、沢山の書物や学術論文として公開されている。それを読むか読まないか、信じるか信じないかは個人の自由だけれど、それを真実として受け止めたとたんにそれまでの固定観念が崩れ、人生観が変わり、自分を縛っていたこだわりが消えて生きるのがラクになることだけは事実。恐怖や不安から解放されて人生が楽しくなり、人間関係も豊かになる。

そのことを福島大学の経済学部の助教授飯田史彦氏が専門の生き甲斐論の学術論文として発表し、その後それは「生きがいの創造」という著書となってPHP研究所から出版されている。その中には生き甲斐を失っていた人たちや親しい人を亡くして悲嘆にくれていた人たちが「生まれ変わり」を信じることによって生きる希望を取り戻し、その後の人生を意義あるものとして生きて行く様子が克明に描かれている。
肉体は人生という川を向こう岸まで渡って行くための舟であり、それに乗っている「自分の本質=魂」はその舟を降りても(=死)まだ更に生き続け、又別の川を渡るために別の舟に乗る。そしてどんな川を渡りそこで何を学ぶかは全て本人の選択だから、そのレッスンを受けるのに最も相応しい時代、場所、環境、親を選んでこの世に生まれて来るという。そこでどんな体験をするかいろいろなバージョンのシナリオも自ら用意し、人生の途中で時には違うバージョンに取り替えたりしながら生きて行くのだと、私はこれまでの長い人生の中から確信するようになった。
そう思えるようになってからの私の人生はどんどん活気に満ち、喜びにあふれ、不安も心配もなくなり、どんな宗教もグルも必要ではなくなった。身体も健康になり、会う人毎に若返ったと言われる。こうした観点から考えると今行なわれているイラクでの戦争も見方も変ってくる。しかし、私にも人としての感情はあるから、バクダッドで多くの市民が亡くなったと聞けば悲しいし、捕虜となって公開されている若いアメリカ兵の恐怖もじかに伝わって来る。

危険な前線には決して行くことはなく、安全な場所で「神の名において断固戦う」とこぶしを振り上げている二人の大統領を見ると「お前らアホか」と罵倒したくなり、劣化ウラン弾に関する記者の質問に「あれは安全な武器です」などと答えているアメリカ政府の報道官には「安全な武器なんてものがどこにある!このバカヤロめ!」と怒鳴っている私もいるのだ。

この戦争で沢山の人々が毎日死んでいる。負傷して苦しんでいる人達も大勢いる。これも彼ら自身のシナリオ通りなのだろうか。イエスと言うには勇気がいる。理窟では分かっていても私の感情が「そうだ、そうだ」と言うことに今激しく抵抗しているのは事実。

 

「臨死体験」をした人々は死を迎えて魂が肉体を離れると全く苦しみはなく、このまま戻りたくないと思ったと口を揃えて言う。それが本当なら死んで行く人たちに対する思いは全く違うものになってしまう。シルバーバーチも「なぜみんな死を怖れるのですか? 死を良くないものと考えるところから全ての間違いが始まるのです」と霊訓の中で言っているのだが・・・

時がくれば無感情に大規模な地殻変動を起こして地上の生物を淘汰し、何度も文明を消滅させて来た宇宙の意志から見れば、今度の戦争も私たちが足元の蟻の喧嘩を眺めているようなものなのかもしれない。わずか数ミリのオゾン層に守られて呼吸をし、天から降る雨が頼りの水で生き、決してなくならないと信じている太陽の光の中で生かされている人間である私たち。毎日が「死」と隣り合わせとは意識せず、自分の力で生きていると錯覚している傲慢な私たち。

「縁起でもない」と日常の中で「死」について真剣に考えたり話し合ったりすることをせず、出来るだけ避けて来た人は、ガンの告知など受ける勇気を持っていないかもしれない。昔に比べて長寿の人が増えたけれど必ずしも寿命で死ぬとは限らない。事故や思わぬ病気で明日死ぬかも知れないのだ。だからこそ「今」を生きることが大切と全ての精神世界のリーダーたちは口を揃えて言う。

自分がいつどんな死に方をするのか、それは誰にも分からない。だからこそ時々「死」について真剣に考えシミュレーションをしながら、自分なりの考えや覚悟を持って一日一日を大切に生きて行きたいと思う。