エッセイ(2003年4月14日)
Nao-sanのひとりごと




私が最初の出産をした昭和30年代の初めの頃は、母親が赤ん坊に添い寝をしたり、泣いたらすぐにお乳をやるというような従来の育て方を古いものとして廃し、授乳は決められた時間通り、抱きぐせがつかないよう泣いても抱いてはいけない、哺乳瓶は厳重に煮沸消毒というように「アメリカ式」と言われる最新の育児法が病院や保健所で指導されていた。
出産後一ヶ月の健康診断の時、夜中に泣かれて眠れないのが辛くてミルクを与えていると正直に言ったら、「そんなことをしたら大人になっても夜中にものを食べないではいられない人間になってしまいますよ!」と担当の小児科医からこっぴどく叱られて泣いてしまったのを覚えている。頼りない22歳の母だった。その子がその後どうであったかと言うと、夜中におなかをすかして目をさますどころか、オネショをしても気がつかないくらい熟睡する子に育ち何の問題もなかった。抱きぐせもつけてはいけないと、どんなに泣いても必死でがまんして抱かないようにしたり、今思えばマニュアルを守るのに一生懸命の愚かな母だったと思う。
「10歳までは充分に甘えさせなさい」という言葉をどこかで読んだことがある。これはわがままを通させたりモノを好きなだけ与えるという「甘やかし」ではなく、優しい言葉をかけたり、しっかりと抱きしめてやったりして子どもが自分は無条件に受け入れてもらえているという安心感を与えることだと思う。自分は親から認められ愛されているという実感を子どもの頃に味わえたなら、時期がくれば熟した果物が自然に枝から離れるように巣立って行くものだ。「子どもは夫婦の愛のこぼれ落ちたもので育つ」という言葉も聞いたことがある。私には耳の痛い言葉だ。私たち夫婦にはこぼれ落ちるほどの愛があっただろうかと振り返るとはなはだ心もとない。その上自立心を育てるためには甘やかしてはいけないというマニュアルに忠実だったものだから3人の子どもたちにはずい分辛い思いをさせてしまったと思う。

2年ほど前に長年不登校児や引きこもりの子どもを持つ親たちのカウンセリングをしている方と知り合ったのが縁で、いろいろなアディクションを持つ子の家族の自助グループと関わりを持つようになり、会合で話をしたりその方達にトランスフォーメーションゲームを受けて頂いたりしているが、実は以前私もそうした自助グループの一員だったことがある。アディクションは「嗜癖」と訳されているが、それなしでは生きて行けないほど依存してしまっているもののことを言う。従来言われて来た「中毒」という言葉に置き換えられた言葉と思えばいいかもしれない。例えばアルコール、薬物、暴力、仕事、ギャンブル、買い物 、クレジットカード、異性、セックス、テレビ、甘いもの(特にチョコレート)などなど沢山ある。過食嘔吐などの女性に多い摂食障害もその一つだし、今なら携帯メールやパソコンなども入るかもしれない。
「嗜好」と「嗜癖」は紙一重で、凝り性の人はそのすれすれの所にいるのかもしれないがそれが依存になり家族を巻き込むようになると家庭崩壊さえしかねない厄介なものである。私も一時期そのファミリーグループに属していたので、自分の経験を通して今苦しんでいる方達のお役に少しでも立てたらという思いで我が家を開放している。依存症は一種の病気だから意志が弱いからでも人間性が低いからでもない。風邪を引き易い人とそうでない人がいるようなもの。誰も風邪を引いた人を差別したり蔑んだりはしない。ただそれになり易い人たちはいる。いわゆるAC(アダルトチルドレン)と呼ばれる人たちだ。これは「機能不全の家庭に育った成人した子ども」と言うような意味で、年齢的には大人でもインナーチャイルド(内なる子ども)が育っていない未成熟な人のことを言う。両親の仲が悪かったり、親が暴力的だったりアルコール依存症だったりで、健康的に機能し愛にあふれる家庭ではない所に育った人に多く、振り返れば私自身ACだったと思うしACはACを引き寄せるから、間違いなく私のかつての夫もACだった。
ACからの回復は先ず自分がACであることに気付くことから始まる。そして自分の中のインナーチャイルドに愛を送り育てて行くのは自分しかいない。人に育ててもらうことを期待したり誰かを恨んで愚痴をこぼしてもインナーチャイルドは成長しない。50代60代になっても自己中心の子どものままで人を振り回し支配する困った大人が多いが、おそらくその人達は自分がACであることにすら気付いていないと思う。しかも本物の子どもの素直さも無邪気さもないから始末が悪い。人の立場に立って見る想像力にも欠けている。「熟年」という言葉があるけれど本当に年齢相応に成熟した大人になりたいものである。
依存や執着を「愛」と勘違いしている人も多く、「息子が生き甲斐」などという母親はその典型。妻の自立を望まない夫の束縛も「愛」とは程遠いものだ。逆に自分がいなければ女房は(夫は)生きて行けないだろうと別れたいのに別れられない夫婦も愛ではなく共依存(co-dependency)の関係に過ぎない。



我が家にはいろいろな人がやって来るので私も出来る範囲で親切にはするが、それが過ぎて依存につながらないよう気をつけている。依存体質の人はやってもらって当たり前、自分の期待通りでないと不満、というクレナイ病患者が多く、感謝という神からの恩恵をもらおうとしない。それがいちばんの心の栄養であり自分を幸せにする特効薬であることを忘れて。

しかし世の中には自立心が旺盛なばかりに「受け取り下手」という人も多い。人を頼ってはいけないとばかりに何でも自分でやろうとし、他人からの好意を素直に受け取ることが苦手な人達だ。私も以前はそれに近いものがあったけれど、年齢と共に出来ないことも多くなって若い人達に助けてもらう機会が増えたらこれが実に心地良く嬉しいものであることに気付いた。幸い私のまわりには「良い子になりたくて」ではなく、心からの親切を下さる方が多いのでこちらも余計な遠慮をせずに済む。その代わり私も同じ、苦にならない範囲でのことしかしないから時には「不親切人」になることもある。受け取り下手な人は年を取ってから痴呆になって、いやでも人に助けてもらわなければならない状況を作り出すそうだから、そうならないよう上手に人に甘えることを覚えてその心地良さを味わいながらも依存にはならないよう気を付けたいと思っている。