エッセイ(2004年12月28日)
Nao-sanのひとりごと
 トランスフォーメーションゲームをファシリテートするようになって気がつくことは、若い人たちの中に人間関係が苦手な人がとても多いということだ。人を傷つけたくない、自分も傷つけられるのはイヤということから、どう言葉を発したらそうならないかということにばかり気を使うので疲れてしまうらしい。相手に気に入られそうなことや相手が期待している答えをして平和な関係を維持したいということからめったにホンネは話さない。従って深いところで心が通い合う関係を築くことが出来ず、男女の関係も会話というよりもすぐセックスという所に行ってしまうようだ。
 日本の文化の中では以心伝心とか目は口ほどにものを言いとか、行間の意味を悟るなど、あからさまに言葉で思いを表現せず寡黙であることの美学が根強いせいか、コミュニケーションに関する教育が貧弱のように思う。世間から嫌われる女のおしべりもそのほとんどが他人についてのことや単なる情報交換で、めったに自分の思いは話さない。話す時はグチか、何かに対する不満とだいたい相場が決まっている。もともと自分の意見や考えに自信がないから、ありきたりの常識か既成概念でしかものを言わない。それは人間関係の平和維持には役立つかもしれないが、決してイキイキとした楽しい関係にはならないし、真のコミュニケーションとは言えないと思う。
 人間関係の中でも最も難しいのが家族。家族の間では何かしてもらっても当たり前という感覚で先ず感謝の表現が足りない上、不満の表現だけは100パーセントになりがちなので、何かあると他人以上の摩擦が起きてしまう。共依存になりがちなのも家族であればこそだ。
 
 特に母娘の関係に問題がある家庭が多く、私の周りでも母娘の関係がうまく行っていない人がとても多い。私自身にもそういう時期があったので切実な問題なのだが、これもコミュニケーション不足が大きな原因となっているようだ。
 ほとんどの場合ずっと母親の言うことを聞いていい子をやっていた娘が、ある時からその偽りの自分に耐えられなくなって母親への怒りをぶつけるようになり、母親はそれまでのコントロールが効かなくなったことにうろたえ、動転し、嘆き、やがて自責の念に苦しむというパターンが多い。それぞれのケースが少しずつ違うとは思うけれど、関係がこじれてしまう背景には必ず「コミュニケーション不足」があるように思う。お互いに自分の思いを率直に伝えず、相手の気に入りそうなことや、相手が期待していそうなことを言ってホンネを話さない。
 つまりウソしか言っていないからそれが積もり積もってどうにもならない関係になってしまうのではないだろうか。子どもの側の思い込みや誤解も、母親の説明不足、言葉足らずに原因していることが多い。家族間のコミュニケーションが豊かで、いつもホンネで話せる信頼関係が出来ていれば、他人とのコミュニケーションもその延長ですんなりと出来るようになるのではないかと思う。
 しかし家族の問題は遡ってみると、その後ろに多くの場合世代連鎖があることも否めない。一家の中で厳然たる権力を持ったおじいさんやおばあさんがいて、その息子や嫁である両親がやはりその権力者に屈服して本当の自分を表現出来なかった場合が多いのだ。それもしっかりした自分なりの哲学や信念に基づいた頑固さなら納得も出来ようが、単なる伝統的な価値観だったり、世間体を気にするが故のものであれば納得出来ないままに我慢を強いられることになる。そうした鬱屈した思いが子どもへのコントロールに向けられたら子どもはたまったものではない。自分でも気付かないうちに精神のバランスを欠くようになってしまうだろう。
 その結果子どもは問題行動を起こして親に盛んにメッセージを送るが、それに気付かず相変わらず子どもだけの問題として捉えているうちは事態は変わらず、むしろもっと深刻になって行く。
 しかしそれがきっかけで親が目覚め、自分の考え方や生き方を変えて行った家庭では確実に子どもが変わって行っている。上っ面のタテマエだけでない、心からのコミュニケーションが生まれ、深い信頼関係が出来上がって行くからだ。
 親子の問題で悩んでいる人たちは、子どもを責め立てる前にどうか自分自身の価値観、考え方、生き方を見直してほしい。そして子どもを自分の所有物と考えず、自分とは違う人生を繰り返し生きて来た別の「魂」としてその存在を尊重してほしいと思う。そういう目で我が子を眺めた時、まるで違う感情が湧いて来るのではないだろうか。