エッセイ(2005年6月24日)
Nao-sanのひとりごと

 
 
 畑の種まきが終わり梅雨に入ると元気な野菜の赤ちゃんたちが芽を出し始め、それと同時に周りの草たちも伸び始める。赤ちゃんたちに 十分な栄養を与えて大きく育てるためにはそれを阻む草たちを抜かなければならない。毎日少しずつ抜いて行く作業が続く。
 
 あまり根を詰めると疲れるのでせいぜい1時間くらいしか続かないのだが、しゃがんで無心に草を抜いていると次第に心が澄んで来るのが分かる。以前はそんな時いろいろな言葉が自然に浮かんで来て、それがどうしても私のノーミソが考え出したとは思えないような真理をつく言葉なので、勝手に「畑の天使のメッセージ」と名付けてこのホームページにも載せたのだが、最近はあまりそれが浮かんで来ない。
 その代わり訳もなくただただ感謝の思いが溢れるように湧き上がって来る。しゃがんで顔が地面から30センチくらいの所にあるのが丁度よいのか、大地からの何か分からない慈愛に満ちた「気」のようなものが伝わって来て、心が暖かく満たされて行くのだ。するとただ「ありがとうございます」という敬虔な思いがとめどもなく湧いて来て涙が出そうになる。そして私の胸からも大地への愛が豊かに流れ出て行く。それが循環する至福こそが生きている喜びであり、生かして頂いている感謝である。

一般的には感謝といえば、誰かに何かを頂いたり親切にしてもらったりした時その人に対して感謝をし「ありがとう」という言葉が出て来ることを指すが、それとは全く違う。その背景にあるもっと膨大なもの、特定の対象がなく、特に理由もない感謝。湧き出る所がアタマ ではなく、心の奥の深い深い所。そこにある泉からとめどもなく湧き上がって来る感じは、やはり何の理由もなく溢れてくる喜びと似てい る。

 この感覚を初めて味わったのはずい分昔になるが、その頃私の日常は苦しみの中にあって喜びとは全く縁のないものだった。それなのに ふとした瞬間にまるで翌日遠足を控えている子どものようなウキウキした嬉しさが湧いて来て「なぜ?なぜ?」と戸惑ったのを覚えている。それはバスの座席に座って発車を待つ間ぼんやり窓の外を眺めている時や、駅へ急ぐ道を歩いている時などに不意に湧いて来る。その時はただ不思議でならなかったのだが、今思うとあれは自分のハイヤーセルフとつながった瞬間だったのではないだろうか。
 それが今では四六時中続くのだから毎日が楽しくないわけがない。特別楽しみにしていることがなくても、また旅行に出かける前日など 普通ならワクワクするような時でも全く同じ感覚で、明日からハワイなんていう日でも淡々としていていつも同じくらいの嬉しさと喜びが心の中に満ちている。あまり興奮しないから傍から見たら無感動でクールに見えるかも知れないけれど、この四六時中同じというところ がすごい、と本人は十分満足している。
 最近常に「ありがとう」と言い、何にでも感謝しましょうという運動をしている人がいて、そのことを書いた小冊子を頂いたのだが、内容はまさに「教え」であってちょっと宗教に似ている。文句なく立派なことが書いてあって内容は全て正しいのだが、教えはマインドにストレートに来るので感動を呼ばない。わけもなく涙が出るほどの感謝が天地と自分の間で循環していると「教え」は要らないし、むしろうっとおしくさえ感じる。

 教えられてする感謝は真の喜びにはつながらないし、それが出来ない時には罪悪感を生む。マインドをはずしてただただ宇宙に心を開き、素直に信頼するだけで何の努力も要らないのだから。

 ただもう一人の「ありがとう」推奨運動をしている方は、言葉には言霊というものがあるから、たとえそう思わなくても、心がこもって いなくてもただ「ありがとう」を連呼すれば苦しみも痛みも消えるとおっしゃる。

 これは以前試してみたことがある。転んで両脇の筋肉を傷めてベッドで寝返りも打てなかった時に、半ばやけになって「ありがとう」を何回も叫んでみたのだ。そうしたら本当に痛みが薄れた、ような気がした。これはけっこうおすすめかもしれない。