エッセイ(2005年8月2日)
Nao-sanのひとりごと



 私の中で長いこと懸案になっていることがある。
 それは「自己犠牲」ということ。
 己を捨てて人のために尽くす、これほど美しく尊いものはないとされ人間として最高の美徳と昔から言わている。
 キリスト教では人々の罪を赦し、永遠の救いのために十字架にかけられたイエスの死を何よりも崇高なものとし、故に今でも救い主イエスとして崇められている。
  今から100年ほど前のロンドンで毎週行なわれていたホームサークルで、あるジャーナリストをチャネルとして高次元からの言葉を伝えていた古代霊シルバーバーチも繰り返し「自己犠牲が大切です。自己犠牲ほど美しいものはありません」と説いている。
  しかし・・・本当にその通り、と手放しで礼賛出来ない私がいるのだ。どうもしっくり来ない。何かが違うような気がする。自己犠牲を行なう人の心が全て純粋ならば問題ないが、人間の心とはそんなに単純なものだろうか、と思ってしまうのである。
 若い頃の私はその言葉を額面通りに受け止め、自分を無にして人のために尽くすことが大切と信じてそう行動することに務め、そう出来ない時は自分を責め、罪悪感に苦しんだ。結婚生活においてもそうだった。そしてその結果は・・・決して幸せではなかったのである。
 しかしそれすら良いことだと思っていたのだ。自分の幸福を考えるのは卑しいエゴであり、そんなことを求める自分は悪い人間だと信じていた。他人の幸せだけを願い、そのためにわが身を犠牲にすることこそ美しいことなのだと。
 しかし、25年ほど前から知ったニューエイジの考え方はこうした昔からの道徳観に突風のように新しい風を吹き込んだ。曰く「人生は幸福になるためにある」「自分も良し人も良しというのが本当だ」 「見返りを求めない無条件の愛こそが至上」「無私の愛に犠牲はない。喜びがあるのみ」「愛とは意識せずとも自然に流れ出して行くものである」などなど。
 その頃読んだ沢山の、それぞれ違う内外の著者の本の中に繰り返し出て来る「release(手放す)」とか「surrender(降参・ゆだねる)」とか言う言葉も実に新鮮な響きを持っていた。臨死体験の記録や生まれ変わり(輪廻転生)の実話なども真実であることを素直に認められたし、それが信じられると当然世界観、人生観がガラリと変わってしまう。
 私が古い時代の価値観をすっぽりと脱ぎ捨て、新しい考えの下に生きるようになるまでかなりの年月がかかったわけだが、その間に個人的な生活の中ではそれを後押しするような出来事が次々と起き、その考え方を私の中で完全にゆるぎないものとして確立させた。
 そしてその結果は・・・意識が広がり、差別や比較がなくなり、パワーにあふれ健康でイキイキとした生活を送ることが出来、願い事は全て叶い、人からは若いと言われ、毎日が喜びと感謝に満ちている。
 過去に囚われず、未来を案ぜず、何が起きてもそれはベストなことなのだと常にポジティブに考えられるので、悩みのタネやグチの素をほじくりだすこともなく毎日が楽しい。
 そしてそのまた結果、「自己犠牲」とはそれを意識せずに喜びとして行なった時のみ人も自分も幸せにするもので、自分は犠牲になっていると意識したり、人のために尽くしていると自覚しているなら、それはホンモノではないと思うようになった。
 相田みつをさんの言葉に「のに、がつけばグチが出る」というのがあるが、まさにその通り。「これだけして上げたノニ」と思うと「〜してくれない」となる。明らかに無条件の愛ではなく見返りを求めていることになる。
  つまり「自己犠牲」は「犠牲」とは思わない心にのみ「美」として存在するものなのではないだろうか。長い間懸案だったことに今ようやく答えが見出せたような気がする。