エッセイ(2005年9月27日)
Nao-sanのひとりごと

 

  先日テレビで女子刑務所を舞台にしたドラマを見た。そこには殺人、傷害致死、覚せい剤、万引きなどで服役中の女性たちのさまざまな人生模様が描かれていたがその底にあるものは共通して「寂しさ」だった。ドラマを見ながら、全てのとまでは言わないまでも多くの犯罪や、暴力、依存症、引きこもり、心身症などの原因となっているものにこの「寂しさ」があるのではないだろうか、と深く考えさせられた。

  「寂しさ」とはいったいなんだろう。人は一人で生まれ、一人で死んで行く。それが寂しいのであれば全ての人が抱えているものに違いない。しかし生まれる時も死んだ後の始末もたいていは誰かの手を借りることになるのだから、ジャングルや孤島で一人暮らしをしない限り、人は人と交わり人に助けられなければ生きては行けない。それでも尚寂しいと感じるのはなぜだろう。

 
  一人暮らしをしていると必ず「寂しくないですか?」と聞かれる。誰かがそばにいれば寂しくないと世の人々は思っているらしいが、そんな単純なものじゃない。たとえ家族がいたって心が通わず、そこに愛が流れていなかったら一人でいる以上に寂しいってことを知らない人が多いらしい。人の形をした存在がそばにいるだけでもいいと思うのは、多分無人島に流れ着いた時くらいではないだろうか。

  群衆の中の孤独というものもある。すし詰めの電車の中で、あるいは混雑する街の中で孤独を感じたことはないのだろうか。これだけ大勢の人がいても誰一人自分を知っている人はいない、私が死のうと生きようと全く関係ない人たちばかりという時、人は孤独を感じるはずだ。それは愛するものを失った時や失恋した時に特に身に沁みる寂しさだ。

  私もたまらなく寂しかった時がある。もともと一人っ子だから一人には慣れているものの、9歳の時に親から引き離されて学童疎開に行った時、いじめに遭っても誰も助けてはくれず一人でふとんの中で泣いていた。10代の頃はアルコール依存症の父のいる家庭で悲しみを分かってくれる人はいなかったし、結婚してからは支配力の強い夫の下で何を言っても屈服させられてしまう口惜しさ、悲しさ、怒りとその結果の孤独。離婚した後も子どもたちから背を向けられたり、失恋したり、母親から信じてもらえなかったりなど、さまざまなことがあっていつも寂しかった。

  それでも犯罪者にも依存症者にもならず、いつの間にかその寂しさから脱却することが出来た。今はもう決して落ち込むこともなく、寂しくもなく、むしろ一人の時間を堪能し、群衆の中の孤独でさえ好ましく感じて楽しんでいる。

  ドラマを見終わってから私はいったいどうやってあの「寂しさ」から抜け出すことが出来たのだろう、としばらくの間考え込んでしまった。

  そして気がついたのは、多分私自身が私を認めていたからだろうということ。いつも私のそばには私がいた。誰も分かってくれなくても、誰も愛してくれなくても私には「てめぇという強ぇ味方があったのだぁー」(国定忠治の名セリフ) と思っていたに違いない。

  そう、今でも私の心の中には呼び出せばいつでも出て来てくれる「ナオちゃん」という小人が住んでいる。口はきかないけれど問いかければしぐさや態度で心の状態を表わしてくれる私の又とない分身だ。これはきっと誰の中にも必ず一人は住んでいる小人のはず。ただその存在に気付いていないだけだと思う。

  誰も認めてくれない、誰も愛してくれない、親も愛してくれない、寂しい寂しいと思ったら自分の中の小人を探してみよう。見つけてもらいたくてその小人ちゃんのほうが寂しがっているかもしれない。静かに目を閉じて自分の心の誰にも見せない小部屋のドアを開けたら、きっとそこにあなたの分身が座っている。

  外の誰かに、愛して、認めて、こっち向いてと叫んで、たとえその通りになったとしても、それはザルに水を注ぐようなもの。きりなく求め続けなければならなくなる。認めてもらいたくて「良い子、良い人」を演じ続ける人がどれだけ多いことか。それは自分にウソをつくことになるから、いつかは本当の自分との乖離が起きてどうにもならなく時が来る。それよりも永遠に必ず一緒にいてくれるいちばんの味方であり理解者でもある、あなただけの小人を見つけよう。