エッセイ(2002年6月)
Nao-sanのひとりごと

   



私はよく人から「若い」とか「イキイキしている」とか言われる。クラス会などに行くと友人たちは皆どこか故障をかかえていて病気の話で盛り上がるのだが、私は自慢出来るほどの故障が何もないので話の輪に入って行けない。すると「不気味なほど元気ね」などと冷やかされる。年を取ったら病気になるのが当たり前と思うのか、みんな「やっぱりトシね」「トシには勝てないわね」「トシだからしょうがない」を連発する。確かに老化現象というのはあるけれど、それを早めるのも遅らせるのも自分次第じゃないのかな。特に精神状態はいくらでも若くいられるし、どんどん若返ることも出来る。

私が若返り始めたのは1996年に都会からこの北軽井沢へ引っ越して来てから。まわりの豊かな自然、四季折々の木々や風景の移り変わり、小鳥達のさえずり、愛らしいリスの姿、山の端に沈む夕陽など毎日が感動の連続。そして訳もなく湧き上がる感謝の思い。これは長い都会生活の中では決して味わえないものだった。

そんな暮しの中で長年の間に刻み込まれた沢山の傷やゆがみがどんどん癒されて行くのが分かった。その頃に出会った数々の精神世界の本もまた、乾いた大地に沁み込む水のように私の心を潤し、沢山の新鮮な気づきを与えてくれた。そしてふと気がつくと、私が勝手に作っていた制限がみんなどこかへ吹き飛んで、自由に大空を舞い、毎日をワクワクと生きて行けるようになっていたのである。

「全ての現実は自分が作っている」とはシャーリー・マクレーンの「アウトオンナリム」の中の言葉だけれど、このたった一つのフレーズが私を今まで知らなかった世界に放り込んだ。そうなんだ、目の前に現れる現象はただの現象に過ぎず、それに反応して湧き上がる感情は自分の中から生まれるもの。その感情の種類によってその現象の色も変わりポジティブにもネガティブにもなるのだ。


「外に意識を向けず、自分の内側に向けなさい」とはアイリーン・キャディをはじめあちこちで言われており、精神世界では常識になっている言葉だけれど、私も若い頃は外側にばかり意識を向けていたと思う。人からどう思われるか、どう見られるかいい人と思われたい、嫌われたくない、ケチと思われたくないなどなど。世間体もけっこう気にする方だったなあ。でも10年悩んだ末に離婚をした時にそれがすっかり消えてしまった。そして「世間の目」ってのは自分で作っているものなんだって気がついた。それは気にすればするほど大きくなり巨大なモンスターとなってのしかかって来るけど、気にしなくなったとたんにスーッとしぼんで消えてしまう実体のないものなんだっていうことに。

人に気を使うとか気配りとかいうけれど、その底に流れているものはなんだろう。相手が快適であるようにという思いやりや喜んでもらいたいという愛なのか、それとも自分がよく思われたいという我欲なのか。よくみつめてみたい。もし後者が動機だと楽しくないしくたびれる。でも自分の出来る範囲での誠意ある愛が動機ならそこには喜びの交流が生まれる。それが健康と若さの秘訣、かな?