エッセイ(2006年5月23日)
Nao-sanのひとりごと

 

  近頃の世の中は、私のイメージの中では並行して並んでいる二つの線路の上を同じスピードで走っている2台の2階建て列車のように思える。

  片方の、Aの列車の1階席には競争、比較、憎悪、疑惑、嫉妬、怒り、後悔、心配、不安という衣を着けた人たちでいっぱい。常に争いや悪口、足の引っ張り合い、怒号、喧嘩が絶えず、泣き声わめき声に満ちている。自分さえよければいいという自己中心の人間ばかり。たとえ家族といえども気に入らないものは抹殺する。社会での成功は出世と金持ちになることと信じ、そのためにはどんな手段も厭わない。自分が好きでなく信じてもいないので他人も信じない。何かにつけて不満が多く、その怒りを他人にぶつけて解消しようとする。

  そういう日常に嫌気がさした人がふとある日、2階席へ上る階段があることに気付く。

 
  おそるおそる上って行ってみると、そこは1階席よりはずっと静か。笑顔の人も多く皆親切だ。いわゆる善人と呼ばれる人の世界。建前と本音を上手に使い分け、決して人を面と向かって傷つけたりはしない。人を喜ばせるお世辞も上手だ。でもめったに本心は見せない。にこやかな笑顔の陰で素早く相手を評価し、自分より上か下か見て取って優越感か劣等感を湧き上がらせる。自分では隠しているつもりでもそれは態度や言葉に滲み出し、人間関係を壊すこともある。

  義務感や責任感も強く、家族も大切にする。しかし人の家族はどうなってもあまり関心はない。我が家の幸せが第一だ。むしろ他人の不幸は蜜の味。人より一歩先んじること、人より優れていることを目指して日々努力を惜しまない。世の中の法律や規則はきちんと守る。その遵守精神が重要であって「規則そのもの」の内容はあまり考えない。異分子は好きではないから排除する。だから自分も排除されないよう常にまわりを見回して人と同じであろうとする。社会の常識に沿って生きることが大切と信じているから、そこからは決して逸脱しない。良い子、良い人、良き夫、妻、親、と言った立場や役割を生きることが大切であり、女は女らしく、男は男らしく、学生は学生らしく、年寄りは年寄りらしく年相応であるべきだと思っている。
  
  この2階席は比較的眺めもよく、乗り心地もさほど悪くはないので大方の人は多少不満があっても死ぬまでこの中に居続けることが多い。しかし、最近ではここのウソの多い世界がいやになって出口を探す人が増えて来た。よく見ると並んで走っているもう一つの車両Bが目に入った。よく見ると隣の車両へ行かれる渡り廊下がある。

 渡ってみて驚いた。A車両からB車両の中は見えないのに、B車両からはA車両が丸見え。そう言えばAの1階席から2階席への階段もその気にならなければ目に入らなかったし、今渡って来た渡り廊下の存在もそれまで全く気がつかなかった。

  BからはAの中で行われている絶え間ない他人との比較や競争、取っ組み合い、殴り合い笑顔の陰の憎悪、偽善、卑屈、自分への偽り、パワーゲーム、コントロールドラマなどが目に付き、これまであまり疑問に思わなかった人々の姿がとても醜く見えている自分に気付く。自分も長い間あの車両に乗っていて、そこから見える景色だけが世界だと信じ込んでいたのだということを初めて知るのだ。よく見るとAの車両には「オールドエイジ号」と書いてある。そして今移って来たBの車両は「ニューエイジ号」となっていた。

 「ニューエイジ号」はなんと平和に満ちていることか。人々は穏やかな笑みを浮かべ、驚きや喜びの感情の表現も豊かだ。人間関係もほとんど対等でコントロールしたりされたりも少なく、大体が信頼関係で結ばれている。不当な罪悪感で自分を責めることの無駄も知っているのでありのままの自分を肯定し、他人をも同じように受け入れようと努力している。思いやりが大切なことも知っているから決して人を傷つけるようなことはしない。皮肉も意地悪もない。しかし他人を思いやるあまり、自分をないがしろにしがちである。自己中心の反対の極の「他己」中心になりがち。他人の評価や反応が気になって思うような行動が取れず、自分のしたいことが出来ない。つい人に気に入られるよう良い人を演じ、ノーを言うことに罪悪感を感じてしまう。その結果いつの間にか不満が溜まり、悲しみの感情から開放されない。しかしそれを他人に転嫁したり恨んだりしてはいけないことを知っているのでその思いを心の奥に押し隠し、表情はいつも穏やかだ。就職、転職、結婚、引越しなどは直感ではなくアタマでよく考え、慎重に行動する。自分の思いよりも親や周囲の意見を尊重し、反対されることはしない。


 そんなある日、今までは目に付かなかった1階席へ降りる階段があることを発見する。

ここで終わりかと思ったらもう一つ別の場所があったのだ。階下から聞こえて来る美しい音楽と香ぐわしい花の香りに誘われて階段を下りて行くと、そこはまるで天国のような所だった。人々の心がまるで薄物を通したように見え、そのどれもが慈愛に満ちている。

自分も人も責めない。皆自分のしたいことを自由にしているのにそれが他人の邪魔をしたり傷つけたりしない。まるで子どものように無邪気で自由だ。そして開放的で自然体。

そこには肌の色や年齢の区別もなく、職業、学歴、財産や社会的地位での差別もなく、お互いがお互いを尊重し合い、それぞれの生き方で自由に楽しく暮らしている。自分を等身大で認め、人と比較して卑下をしたり傲慢にもならない。他人のありのままも受け入れている。責任感や義務感からではなく自分の心の聖なる部分に正直に行動するから常に喜びに満ちている。この世は上下関係ではなくネットワークでつながっていることを知っているから教祖やボス的な存在を作らず、宇宙の法則の中で生かされていることへの感謝と謙虚さを忘れない。「行動すること」がその法則を動かすことも信じている。実はその法則に対して自分は無力であることも知っているのですべてを流れに任せ、無駄な努力はしない。起きて来ることをありのままに受け止める。それが偶然ではなく必然であることを知っているからだ。  全てのいのちは同じエネルギーから出来ていることも知っているのでここには差別も偏見もない。人に合わせるのではなく自分自身の人生を自分らしく生きている。助け合いはするが依存はしない。
全てが愛に満ちている。
  
この車室からはこれまで自分が通って来た部屋のどれもがよく見えるが、中へ入らない限りほかのどこからも見ることが出来ない。

さて、今自分はいったい四つの車室のどこにいるのだろうか。 

これまで同じスピードで並んで走って来た二つの車両が、21世紀に入ってから少しずつずれて来ている。B車両の方がややスピードを上げて来たのだ。これからはもっと速さに差が出て来てAとBの間の渡り廊下がはずれてしまい、完全に世界が二分されてしまう時が来るかも知れない。

  もしかすると誰にもまだ見ることの出来ない第3のレールがあって、そこには別の車両が走っているかも・・・・。