エッセイ(2005年8月2日)
Nao-sanのひとりごと



 
長く続けて来た仕事をやめたくなる時がある。 その仕事に気が入らなくなり、情熱が感じられなくなった時だ。

それでも人は普通仕事をやめない。
収入がなくなることが怖いからだ。
家族がいればなおさら無責任なことは出来ない、と自らを叱咤激励して仕事に励む。そこに職場での良好でない人間関係がからめば心はだんだん壊れていく。こうしてうつになったり自殺をする人が世の中にはどれだけいることだろう。どの人も皆善良で責任感が強い真面目な人なのではないだろうか?
付き合っていた女性が妊娠したとする。それが望みで大喜びをして結婚する男性もいる一方で「無責任男」のレッテルを貼られるのがいやで「結婚」という形で責任を取る男性もいる。昔は婚前妊娠などもってのほか。娘をキズモノにしたということだけで男性は責任を取らされたものだ。でも責任だけでした結婚が幸せだろうか。
  
 仕事や結婚といういわば人生の一大事を責任または義務だけでした場合、世間の賞賛は受けても本人の心の中はどうだろうか。風が吹き抜けてはいないだろうか。もしそうなら、そこに肝心なものが欠けているからだ。それが「愛」だ。

 本来人の魂は情熱に満ちているもの。それを完全燃焼させた時「愛」が噴出する。それは本人の全身にみなぎり、外へ人へと流れ出て行き周りを、 そして世界を満たして行く。それだけではない。愛のエネルギーは宇宙に無限にあるから、心を開いてそれを受け入れれば我が身を通路として涸れることなくあふれ出て行く。そして人の心を潤し癒して行く。そこに何の努力もいらない。

 社会の構成員としての義務を果たし、自分の人生に責任を持つことは重要だがそれさえも愛が欠けていては楽しさも喜びも感じられないと思う。
これまでの社会通念で欠けている点がこのこと。喜びとか楽しさなどは二の次、ただ責任や義務さえ果たせばそれで評価されたのだ。でも今は時代が進化している。何がいちばん大事なのかよく考えてみよう。

 愛があるところ必ず喜びや楽しさ、幸福がある。それが先ずあれば何も責任だの義務だのを言わなくてもそれは必ず
伴うものだ。
しかしその逆はない。仕事でも結婚でも子育てでも親の介護でも、そのほかどんなことでもそこに愛があるなら、苦労は喜びに、疲れは満足感にとって変わるはずだ。

何をするにも「動機は愛」でありたいと思う。