エッセイ(2008年2月)

   
 

  最近スピリチュアルという言葉をよく聞く。スピリチュアルカウンセラーを名乗る江原啓之さんの影響が大きいと思うけど、毎日どこかでその文字を見ないことのほうが少ないくらいだ。

 今から30年くらい前は「精神世界」という言葉が使われていた。目に見え手で触ることが出来る物質世界に対して、目には見えないし証明も出来ないけれど存在すると思える世界をそう呼んでいたのだ。それからしばらくして今度は「ニューエイジ」という言葉が使われるようになった。従来の古い考え方や既成概念に対しての新しい価値観や生き方を指す表現だが、本来の意味から少しずれて「ニューエイジ思想」などという言葉もたしかヒッピー達が使っていたのではなかっただろうか。

そして最近はそれが「スピリチュアル」になった。宗教でもなく哲学でも思想でもない心の世界を表すには丁度いい言葉かもしれない。外来語嫌いの人々は「霊的世界」とでも言うのだろうが、これだとどうしてもオカルト的な感じになってしまう。「霊」という言葉がこれまであまりにも幽霊とか霊能者とか心霊現象とかどちらかというと怪しげなことの表現に使われ過ぎて、本来の尊い意味からずれて印象付けられているからだ。

 だから「スピリチュアル」といカタカナ言葉が無色透明で受け入れ易かったのだと思う。それではこれを一言で表現したらどうなるか。

「自分の心の中の深いところにある世界」とでも言ったらいいだろうか。

「スピは苦手」とおっしゃる方も多いが、そういう人でも人間が肉体だけの存在とはよもや思ってはいないだろう。心、意志、意識、思い、考え、感情、想像力、こういうものを目の前に形あるものとして出すことは出来なくても確かに在るということは否定出来ないはず。そこが先ず第一段階。それが認められたら次はそれがどこに通じているかということだ。自分の中に存在するだけのものだろうか。ほかの人のそれとは関係ないものなのだろうか。そんなはずはない。そうでなければ「心が通じる」という体験は出来ないはず。それは人間対人間だけのもの? いえ、いえ、植物に言葉をかけることできれいな花を咲かせたり、立派な実を実らせることは周知の事実だ。動物なら尚更人間の思いを敏感に察知する。ペットを飼ったことがある人なら、言葉は話せなくても彼らと心を通わせられることを知っているはずだ。最近は鉱物にも感情や意志のあることが分かって来ている。

となるとこの世界の全てが大きないのちの流れでつながっていると思えないだろうか。そしてその背後に得体の知れない何か大いなるものの無言の意思とか知性を感じられないだろうか?
 我々が夜寝ている間も心臓は動き、血液は流れを止めない。それを働かせているものは何?自分の意志や力でないことは確か。もしそうなら自由自在に止めたり動かしたり出来るはずだもの。木々が春になると芽を出し、秋には紅葉して冬に葉を落とす時、すでにもう翌年の春に芽吹く芽がちゃんと用意されている。大自然の不思議、宇宙の整然とした秩序。そしてそれらに感動する人間の心。そのうしろにあるものは何?

 宗教家ならそれを神と呼ぶだろうけど無神論の科学者は何と言うのだろう。目に見えない神に名前を付け人格を与えて崇めるのは宗教に任せておけばいい。わが神こそが真実と言い張って争う人には本当の意味でのスピリチュアルは縁がない。占いや風水や気学なども長い間の統計をもとにした学問であって、人生の指針とはなってもスピリチュアルとは一線を画している。

 宗教でもオカルトでも学問でも思想でもない心の世界。それがスピリチュアルな世界。しかも宗教も学問も科学も自然界も宇宙も全てを包括している世界だ。そしてそれは私たち全員の心の奥深いところとつながっている。だから私たちの心の扉を開ければすぐそこに広い広いスピリチュアルな世界への入り口があるのだ。それには先ず自分の心の中の奥深いところに目を向け、じっと見つめることから始めよう。それに目をそらし答えを常に外に求めている人には決して見つけられない世界だ。

 スピリチュアルとは自分の心の深いところをじっと見つめることと見つけたり、というのが今の私の結論。そこが先ずスピリチュアルな世界の最初の入り口だ。これが苦手と言う人はきっと自分を見つめたり自分自身を知ったり発見したりすることより外のことに目が向いていて、自分が現実を創っていることを知らない人だ。
 病気や不幸な出来事は向こうから勝手にやって来るか、他人のせい、あるいは自分の運の悪さだと思い、「自分が引き寄せている」ことに気がつかない。それは自分の人生に責任を持っていない人ということにならないだろうか。