エッセイ(2002年9月17日)
Nao-sanのひとりごと

 



浅間山麓の自然の中で暮らし始めて6年あまり。この間突然ハッと気付いたことがある。ここへ来てからの人生が私の本当の人生なのではないかと。それまでの人生は夢まぼろし、ただ「生活してた」というだけで本当の意味で「生きていた」とは言えないんじゃないかと。

つまり呼吸で言えば、それまでは浅い胸呼吸。ここへ来てからは深い腹式呼吸で生きているということだろうか。胸呼吸で生きていた時はいつも不安や心配があったし、何かあれば落ち込んで、100パーセント喜びに満ちた日はなかったけれど、今はいつも心が安定していて、感情に振り回されることもなく、常に「気」が丹田に落ちている感じ。う〜ん、そうなんだ。丹田ということは「肚」だ。つまり肚で生きるということが真に生きるということなんだ。人の目や評価を気にすることなく、役割を演じるのでもなく、自分と言う人間を100パーセント生かして生きること。それが「生きる」ということなんだ。

 

女らしく、母親らしく、年相応に、人から後ろ指されないよう、白い目で見られないよう、常識からはみださない生き方が最上のものと考えている間は胸呼吸状態。本気で生きているとは言えない。ただ毎日食べて寝て排泄をして、単に生き物としての生活をしているだけ。私もかつてはそうだった。だからいつも不安感や罪悪感や劣等感にとらわれて自信が持てなかったんだと思う。

今から7年前の夏のある日、今住んでいるこの地に立った時「ここだ!」と思ったあの強烈なインスピレーションは何だったのだろう。それがズーンと肚に突き刺さったあの時から、自分でも知らないうちに私は「肚」で本当の人生を生き始めたらしい。そんなことに今頃気付くなんて鈍感もいいところだけど、意識の深い所から表面に上って来るまでに6年の歳月が必要だったのか、それとも私のセンサーの感度が低かっただけなのか、シンプルなことほど人は気付き難いものなのかもしれない。

私は東京の山の手生まれだけれど、子どもの頃下町に住んでいたこともあって、本気で怒ると気持も言葉もベランメエになってしまう。めったに怒ることはないけれど、心底肚が立った時はものすごいエネルギーが爆裂する。痴漢を殴り飛ばしたこともあるし、「バカヤロー、テメエのことはテメエでやれー!」と息子に怒鳴ったこともある。そんな時は火事場の馬鹿力とでもいうような強烈なオーラが噴出するからその気迫に押されてテキは向かって来ない。

 

若者がよくキレるなんていうが、あれは頭か胸だけで生きているからだと思う。肚で生きればめったなことではキレないものだ。お陰でここで暮らすようになってからは、たまにチラっと不愉快な気分になることはあっても本気で肚が立つようなことはないし、感動の涙はあっても以前のように悲しみや悔しさからの涙はない。探せば悩みのタネはいくらでもあるのだけれど悩まなくなったから落ち込むこともなくなった。水の中に風船を沈めようとしてもすぐ浮き上がってしまうように、落ち込むことが出来なくなったと言ったほうがいいかもしれない。

でもこれからの人生、まだまだ試練があると思う。そんな時自分がどんな反応をするか興味しんしんだが、一度肚で生きることを覚えたら一時的なショックはあってもきっと立ち直りは早いと思う。自分を信じ、ホンネで生きれば怖いものは何もない。自分を飾ることも卑下する必要もなくなる。自分を取り囲む人やモノ、事柄、現象のどれにも執着せず、常にその円の真ん中に存在していればいつも心穏やかでいられる。そうすると魂が喜びに満ちて輝き、勇気とパワーが湧いてくる。それに連動して身体中の細胞がイキイキとして免疫力が高まり健康にもなると私は固く信じている。これってただ単に私がオメデタイってだけのことかな?