世の中には大きく分けて二通りの人がいるようである。
知らないことや知らない世界、知らない場所、不思議な世界などについて好奇心があるか恐怖心があるかのどちらかだ。
 私などは完全に前者タイプなので、知らないことは知りたい、不思議なことがあればその謎に迫りたい、興味のある場所には行ってみたいし体験もしたい。少し不安や恐怖があったとしても好奇心のほうがそれを押しのけてしまう。
 
 しかし、恐怖心のほうが強い人は先ず「知ること自体」が恐怖であるらしい。
 表面意識だけで把握している表面的な自分、つまり自我の部分が自分自身の全てであると思っているから、その奥に潜む「本当の自分」を知ることが怖い。
 そういう人にとっては肉体的な五感だけで理解できる自分が全てだから、形にして取り出すことができない心や思想や想念、感情というものもすべて頭骸骨の中に納まっている脳細胞が作り出しているものだと思っている。
 だから死んでしまえばそれらも脳細胞とともに消えてなくなり無に帰してしまうと思うから考えはそこでストップしてしまう。それが科学的ということであり、それ以上のことを知ろうなどと思うのは愚か者のすることと思っているが、実はその先を知るのが怖いのである。
 自分の理解できる範囲内にさえいれば安心だがその先へは怖くて進めない。だからその人の世界はそこまでで、それ以上には広がっていかない。
 一般人の場合はそれでもただ単に「話題の少ない退屈な人」で済むかもしれないが、少なくとも科学者と肩書きのつく人がそれでは困る。
 
 科学と言うのは最初はすべて仮説から始まると聞いたことがある。「もしかして」という興味から実験をし、立証して行って初めて新しい発見となるのだろうから、先ず好奇心から出発するものが科学なのだと思う。
 宇宙にすでに最初から存在するものを発見し理論付けて行くのが科学だと私は思っているが、一部の科学者と名乗る人たちの中にはあたかも自分たちが創造した理論が科学と思っているらしい人もいて、既存の学説をくつがえすようなことは決して認めようとしない。
 例えばビニールハウスの中でモーツアルトの曲を流したらトマトが格段に甘くなったとか、毎日声をかけて育てたシクラメンは次々と花を咲かせるのに憎しみの言葉を浴びせたり無視したりしたシュクラメンは枯れてしまった、という事実はあるのにそれがどうしてなのか研究した科学者がいるという話は聞いたことがない。
 水にきれいな言葉をかけて凍らせると美しい結晶を作るが、汚い言葉をかけた水は結晶が出来ないことを偶然みつけた民間人が20年以上もかけて研究したことを、自分では実験すらせずに嘘っぱちと決めつけた科学者の文章を堂々と載せる無責任な大新聞もある。
 新聞とテレビの情報はすべて正しいと信じている愚かな大衆を誤った方向へ引っ張っていくメディアの恐ろしさを、太平洋戦争を体験した世代は決して忘れない。
 
 世の中はまだまだ解明されない不思議なことで満ち満ちている。
誠実で研究熱心な真の科学者は、いくら研究してもわからないことは「ニセモノ」だとか「インチキ」というような結論は出さず、人間の最高の頭脳を持ってしても解明も証明もできない人智を超えたことがあるのは事実だと謙虚に脱帽している。
 もし人間の頭脳が全ての生き物の中で最高と思っているなら、それは単に傲慢であるに過ぎない。地震の予知など、昆虫や動物にさえ敵わない人間の頭脳なのだから。
 
 自分の頭脳がその程度のものだと認めるのが怖い人にこそ「ニセ科学者」の称号を差し上げたいものである。