エッセイ(2005年7月)
Nao-sanのひとりごと

   

 昔カウンセリングの勉強を少ししたことがある。ロールプレイなど実技のほかに老子を読んだり、エントロピーについての講義などけっこう難しいことをやっていた。その老子の授業の時生徒の一人が、「何事も努力が大切」という発言をしたら、先生が「努力なんて、それが何になるんです?」と言われ一同キョトンとしてしまったことがある。

 

私もその一人。努力することは良いことと疑いもなく思っていたから、どうして?と理解が出来なかった。前後の言葉は忘れてしまったのだけれど、その先生の言葉だけはずっと忘れられず疑問符がついたまま耳に残っていた。

 それが最近になってようやく腑に落ちて来た。確かに身体やアタマに関することについては「努力」は実を結ぶ。自転車乗りでも逆上がりでも水泳でも語学学習でも、一生懸命努力すればそれなりの成果を上げることが出来る。
 でも心の問題はどうだろう?自分のことを振り返っても変容は努力では出来ず、「気付き」が可能にしたように思える。本の中の一行、誰かの何気ないひとこと、ふと心に浮かんだ思い、目に映った美しい自然の一コマ、そのようなものがきっかけとなって大きく自分が変わったり飛躍したりしたように思えるのだ。
  性格や気質も努力では変えられない。潔癖症、短気、頑固、運動嫌い、人間不信などが努力で変えられるだろうか?もし変わるとすれば何かがきっかけで自分でも知らないうちに変容が起きるからだと思う。だから自分の欠点を拾い出して落ち込むことはない。欠点付きの自分をそのまま認めてやればいいのだ。ありのままの自分を受け入れるというのはそういうことだ。カンペキ人間を目指すことなど必要ない。もしかしたらそのままを受け入れた時から変化が始まるかも知れないのだから。

 私自身昔にくらべてずい分変わったと思う。以前は世間の常識に合わせ、人から見て立派な人間になることを目指し、自分を犠牲にして人のために尽くすことを美徳とし、ネガティブな感情は全て悪と思い、物事はよく考えしっかり先の見通しを立ててから行動に移すべし、など絵に描いたような優等生をやっていた。そう、深い考えもなくただ「演じて」いたのだと思う。その結果何の不安もない幸せを手に入れただろうか。否、それとは逆に常に不安と心配、恐れがない時はなかったと思う。
 
  それが今はどうだろう。それらを全部やめてしまって心の赴くまま自分の信じるままに動き、直感を即行動に移しては人を呆れさせ、怒りたい時は怒り、人の目や世間体は気にしない。負担にならないことしかしないから疲れないし、我慢もほんの少しだけ。ワガママというのは「我が侭」が元の意味で、本当は自分のあるがままを生きるということだと聞いたのでNOを言うのも上手になった。

 アタマ(マインド)はあまり使わないほうがよいことが分かったがこれはもともと得意中の得意、堂々と左脳を眠らせて感じることを大事にしハートが受け取ったことだけを言ったり行動したりしているととてもラクで、どこにいても誰といても変わらない自分でいられる。
これ以上でもこれ以下でもない等身大の自分に正直に毎日を生き、全てを宇宙に委ねて、何があってもそれは自分にとって良いことなのだと信じてノーテンキを決め込んでいれば何の不安も心配もなく、毎日が平安のうちに過ぎて行く。これこそが究極の幸福というものだと思うのだが、これも自分がそう感じていればいいことで他人がどう思うかは関係ないことだ。