エッセイ(2003年1月13日)
Nao-sanのひとりごと





 

人の一生はさまざまな体験に満ちている。毎日が体験の連続と言ってもいい。

楽しい体験もあれば苦しくつらい体験もある。出来れば不幸な体験は避けて通りたいと人は神社へ厄払いに行き、お守りを買い、占いに頼り、ゲンをかつぐ。その結果常に不幸になりたくないという恐怖とそうなったらどうしようという心配をかかえながら生きることになる。私もかつてはその一人だった。しかしその避けて通りたい体験が容赦なくやって来る時があるのだ。逃げたくても逃げられない試練が目の前に立ちはだかる。無我夢中でその試練と戦う。一つ乗り越えると又一つ。誰の助けも借りず一人でそれと戦わなければならない。乗り越えるのには長い長い時間がかかる。

けれど気がつくといつの間にかそれを乗り越え、振り返ると越えて来た険しい山や深い谷が遠くに見え以前よりぐっと強くなった自分を発見する。試練につぶされずに生きて来た自分が無性に愛しく思え、あっぱれマークをつけてやりたくなる。もう今では何でも来いという心境。ドーンと腹がすわってしまった。何だって受け止めてやろうじゃないの。人生は体験するためにあるのだもの。その体験をするためにこの世に生まれて来たのだもの。と、思えるようになってから不思議なことにあまりつらい体験に出会わなくなってしまった。

でも今は一時休憩だけなのかもしれない。

私にも感情があるからこれからもきっと悲しんだり、腹が立ったり、がっかりしたりすることがあると思うが、そういう状態になることを怖れ避けたいと思っていた頃とは違いその感情を客観的に眺めながら充分に味わい尽くすことが出来ると思う。その時は誰はばからず大声で泣き、怒鳴り、ドーンと落ち込もう。そしてまた立ち直り前を向いて歩いて行くのだ。

 

体験を恐れてはならない。どんな体験もしたほうがよい。体験は食べ物と同じだ。必ず何らかの栄養を与えてくれる。充分に消化すれば心の血となり肉となってカスは排出される。そう、この「排出」が重要なのだ。つまり不幸と思える体験から栄養だけを吸収したらあとはさっさと忘れること。いつまでも消化しないままだったり、残りカスを溜め込んでいてはそれが腐敗して毒素を放つことになるから。

楽しい体験は味が良いし消化も良いから楽だけれど、辛(つら)い体験は辛(から)くて苦くて消化に時間がかかるかも知れない。でもどんな体験でもどんどん食べてどんどん捨てて行こう。古傷を後生大事に抱えていても何もならない。心はやせて行くばかりだ。過去の不幸な出来事に執着していては心が便秘になるだけ。そんなものは早いとこ下水道に流してしまおう。そして又新たにやって来る体験を目を輝かしてガッチリと受け留める
のだ。それが生きるということだもの